2009年06月26日

経済的に採取できる埋蔵量を確認埋蔵量と呼ぶ

現在の技術で、経済的に採取できる埋蔵量を確認埋蔵量と呼ぶ。技術の進歩や石油価格の上昇などによる損益分岐点の変動が起こると、確認埋蔵量が増える。したがって、確認埋蔵量は新しい油田の発見がなくても変化する。ある時点における確認埋蔵量をその時点における年間消費量で割った値を可採年数と呼ぶ。2003年時点での確認埋蔵量は全世界で1900億kl。地域分布は偏っており、アジア州、特に中東地域が56.5%を占める。ついで北アメリカ州の17.9%、ヨーロッパ州と南アメリカ州の8.0%である。埋蔵量と産出量を比較すると、カナダ、イラク、アラブ首長国連邦など埋蔵量が上位10位に入りながら、産出量が比較的低い国が確認できる。
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サウジアラビア 21.4%
カナダ 14.8%
イラク 9.3%
アラブ首長国連邦
クウェート
イラン
ベネズエラ
ロシア
リビア
ナイジェリア
2004年時点の全世界の産出量は35億6,652万トンである。上位10位の国を以下に挙げる。地域別産出量はアジア (42.8%)、ヨーロッパ (20.4%)、北アメリカ (15.7%)である。ヨーロッパが2位となる理由はロシアとノルウェー(北海油田)のためである。なお、日本産の原油については、石油#日本の石油事情を参照のこと。

2009年06月10日

アレルギー性肉芽腫性血管炎

アレルギー性肉芽腫性血管炎(あれるぎーせいにくげしゅせいけっかんえん、Allergic granuromatosis-Angitis; AGA)は全身の動脈に炎症が生じる病気。国際的には、チャーグ・ストラウス症候群(Churg-Strauss syndrome)の名称が一般的である。

歴史 [編集]
病気概念の歴史的変遷
1951年に Churg と Strauss が病理学的な見地から結節性多発動脈炎(PN)からの分離独立を唱えた。

定義(概念) [編集]
アレルギー性肉芽腫性血管炎は全身の動脈に壊死性血管炎を生じる病気。結節性多発動脈炎(PN)は肺動脈を侵さないが、本症は肺動脈を侵し、また気管支喘息を起こすので、本症=PN+肺合併症 と考えても良い。

病態 [編集]
好酸球増多を伴う全身性血管炎であり、病理学的には好酸球浸潤を伴う壊死性血管炎や血管内外の肉芽腫を生じる。
日本映画
バレエ
結晶学
ビリヤード
栄養ドリンク
キンボール
少子化
動物園
アレルギー
関東
為替レート
おつまみ
歌舞伎
運送
自動車工学
鳥インフルエンザ
サーフィン
薬膳
カバディ

疫学 [編集]
症例数が少ないため、大規模な臨床研究を行いにくく、診断指針、治療指針はまだまとまっているとはいい難い。

症状 [編集]
血管炎症状の前に気管支喘息や副鼻腔炎などのI型アレルギー性症状が先行する事が多い。血管炎症状として多彩な臓器症状を呈する。多発性単神経炎を主体とする神経症状が頻度が高く、全症例の70%以上で認められる。その他、関節炎、肺、心臓(冠動脈疾患)、皮膚(発疹)、消化管(潰瘍)、腎症などが起こる。

検査 [編集]

血液検査 [編集]
赤血球沈降速度↑
好中球↑

生化学検査 [編集]
IgE↑
リウマチ因子(+)
抗好中球細胞質抗体(P-ANCA)(+)

レントゲン写真検査 [編集]
胸部レントゲン写真検査
浸潤影が認められることもあるが、特異的でない。

肺胞洗浄液(BAL) [編集]
好酸球↑

針生体検査 [編集]
血管炎を認める。

診断 [編集]
罹患臓器に針生体検査を行って炎症を認める。

治療 [編集]
血管炎症候群の中では比較的ステロイド治療に対する反応は良好である。しかし、難治例、再発例に対してはステロイドパルス療法や、免疫抑制剤の併用(シクロフォスファミドなど)、γ―グロブリン大量投与療法などが試みられている。

2009年06月07日

フルセットでの重量は最低でも20kg以上はあったが

フルセットでの重量は最低でも20kg以上はあったが、これは20世紀の歩兵の標準装備重量と比して重すぎるものではない。(標準装備を全部装備すると90?ぐらいになるらしい)しかし銃器による撃ち合い(銃撃戦)が主体となり、また必要に応じて背嚢を一時的に何処かに置いて行動する現代戦闘とは異なり、この装備重量のまま1打撃ごとに全身で撃って掛かる剣戟では、如何に鍛えられた騎士といえども体力の消耗は激しく、また全身を覆うことから来る通気性の悪さや、鎧の下に着るものを調節する訳にも行かない暑さ・寒さという点でも、否応無く鎧を着た者の体力を削るものであった。

勿論鎧をつけた騎士が戦地に赴く際は、騎士自身が装具や食料・衣類や野営具を持参する訳にも行かず、常に従者がこれらの消耗品・必要品を運搬する必要もある。このため騎士には常に一人?数名の従者がついていた

これらの鎧は、部分的に取り替えることにより、騎馬用から徒歩用まで多目的に使えた。例えば長い拍車などは騎馬用であり、五本指のガントレットは手綱を持つためである。しかしミトンガントレットは接近戦では大切であり、あるいは五指ガントレットの上から更に指を強固に保護するオーバーガードをつけて使用された。
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プレートアーマーは防具としての意味合いが強いが、ある意味では着る武器であった。これは甲冑剣術が斬るよりも打撃を中心に考えられたからで、甲冑の重量は武器となりより強いインパクトを与えた。片側のガントレットだけで1kgもあり、装甲の薄い兵士がこれで殴られることは、その重さのハンマーで殴られることに等しい。また篭手に短剣やスパイク状の武器を取り付けることもしばしば行われた。

また日本の武士が着た甲冑同様に意匠を凝らしたものも無い訳ではないが、これは後述するパレードアーマーなど儀礼的なものへと変化していった。なお戦場に於ける敵味方・個人の識別には、意匠を凝らした盾や兜のほかに、サーコートと呼ばれる甲冑の上から羽織るマントが利用された。

2009年04月24日

上海の伯爵夫人

上海の伯爵夫人(The White Countess)は2005年の映画。1930年代の上海を舞台にしたロマンス映画で、ブッカー賞受賞作家カズオ・イシグロのオリジナル脚本を、ジェームズ・アイヴォリーが映像化した。

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1930年代の上海。ロシア貴族のソフィアは、祖国を逃れて上海で暮らしている。夫はすでになく、夫の側の親族と暮らしていた。ソフィアはクラブでホステスとして働きつつ家計を支えていたが、気位の高い家族は、彼女をふしだらな女だと決め付け、辛く当たっていた。先の見えない不安と、身を持ち崩してゆくホステスが多い中、ひとり娘カティアのために黙って働く彼女だが、ある日、店を訪れていた盲目の外交官ジャクソンと出会う。ジャクソンはヴェルサイユ条約の調印にも立ち会った有能な外交官だったが、視力をなくし自暴自棄の生活を送っていた。彼には上海でバーを開く夢があり、競馬で勝ったお金を元に、自分の「夢のバー」を開こうとしていた。ジャクソンは、そのバーにソフィアが必要であると彼女を説得し、ソフィアは"The White Countess"で働くようになる。しかし一緒に働き始めても、二人の関係は全く仕事上のものに限られていた。しかし、日中戦争が勃発し、上海を脱出しなければならなくなる。

2009年04月22日

古代エジプト

古代エジプト(こだいえじぷと)とは古代のエジプトの歴史的呼称。ここで起きたエジプト文明は世界四大文明のひとつ。紀元前3000年前後に中央集権的な統一国家となる。通常、紀元前30年にプトレマイオス朝が滅亡しローマ帝国の支配下に入る前までの時代を指す。

古い時代から砂漠が広がっていたため、ナイル河流域の面積にして日本の4倍程度の範囲だけが居住に適しており、主な活動はその中で行われた。ナイル河の上流は谷合でありナイル河一本だけが流れ、下流はデルタ地帯が広がっている。最初に上流地域(上エジプト)と下流地域(下エジプト)でそれぞれ違った文化が発展した後に統一されたため、王の称号の中に「上下エジプト王」という部分が残り、古代エジプト人も自国のことを「二つの国」と呼んでいた。

ナイル河は毎年氾濫を起こし、肥えた土を下流に広げたことがエジプトの繁栄のもとだといわれる。ナイル河の氾濫を正確に予測する必要から天文観測が行われ、太陽暦が作られた。太陽とシリウス星が同時に昇る頃ナイル河は氾濫したという。また、氾濫が収まった後に農地を元通り配分するため、測量と幾何学が発達した。

アフリカの中南部とは砂漠と山岳によって隔てられているため、アフリカというよりも西アジア、地中海文明に近い文明であった。最初の農耕文明とされるメソポタミアから多くの影響を受けているといわれるが、民族移動の交差点にあたるメソポタミアが終始異民族の侵入を受け戦いにあけくれたのに比べ、地理的に孤立して外れにあったエジプトは比較的安定していた。

紀元前30000年頃、西アジア方面から古代エジプト人の祖先が移住して来る。
紀元前10000年頃、定住が始まる。
紀元前5000年頃、新石器時代。農耕と牧畜が始まる。集落が生まれ、バダーリ文化が始まる。
紀元前4000年頃、各地にセペト(後にギリシア語でノモス)と呼ばれる都市国家が上エジプトに22、下エジプトに20、合計約42に分かれて成立し始める。
上エジプト:ナイル河上流の細長い峡谷地帯、ナカダ文化。
下エジプト:ナイル河下流の広がったデルタ地帯、ファイユーム文化、メリムデ文化、マーディ文化。
紀元前3500年頃、上エジプトと下エジプト、二つの統一国家ができる。
上エジプト:主神:ホルス、都市:テーベ、テルモポリス、エレファンティネ。
下エジプト:主神:セト、都市:メンフィス、ヘリオポリス、ギザ。
灌漑農耕が始まりパレスチナ、レバノン方面に進出。
ヒエログリフ(神聖文字)が使われはじめる。
古代エジプト人は、日本の元号のように「『王の名前』の統治何年目」のように歴史を記録していた。そのため、絶対的な年代表記法に置き換えた時に、幾分かの誤差があるだろうと言われる。初期王朝の始まりも50年から200年ほどの誤差がある可能性が指摘されている。

古代エジプトは、次の時代に区分されている。

エジプト初期王朝(紀元前3150年-紀元前2686年)
エジプト古王国(紀元前2986年-紀元前2181年)
エジプト第一中間期(紀元前2181年-紀元前2040年)
エジプト中王国(紀元前2040年-紀元前1663年)
エジプト第二中間期(紀元前1663年-紀元前1570年)
エジプト新王国(紀元前1570年-紀元前1070年)
エジプト第三中間期(紀元前1069年-紀元前525年)
エジプト末期王朝(紀元前525年-紀元前332年)
プトレマイオス朝(紀元前332年-紀元前30年)

マッチョ シスター シャンソン ミズバシ ストック オタワ ビピンセット モカシ クアヘン ランプ ジョー たけのこ ハットピン スコー どひ ノーサンキュ ケース ブイカッタ バウハ テイクオフ ジェム デグレー バラモン ライト コモデ ダイナモ いえごん ミドル 陣の風 タブロイド キシレン オー ラテン レディ ムートン クオンツ パペット ユーレカ ホーム ターフビ ジュゴン オフショ パリジャ オフラ ブランド 学園祭 プロッター チャマ ハンドマッ バール

エジプト初期王朝(黎明期、第1?第2王朝)
国家の統一。メソポタミアに対する脅威から国が統一されたともいわれる。
首都:メンフィス

紀元前3150年頃、上エジプトのナルメル王(メネス王、ホル・アハ王とも)上下エジプトの統一
上下エジプトの王として確認された王として最古の王である。ナルメル王よりも古い上下エジプトの王がいた可能性もある。(サソリ王が有名)
ヒエログリフの文字体系が確立。太陽暦(シリウス・ナイル暦)が普及する。
紀元前3000年頃、メソポタミアからワインやビールが伝わる。

エジプト古王国時代(第3?6王朝) [編集]
中央政権が安定。
首都:メンフィス

紀元前2650年頃、ジェセル王が階段ピラミッド造営。
紀元前2600年頃、スネフェル王がヌビア、リビア、シナイに遠征隊派遣。
紀元前2550年頃、クフ王、カフラー王、メンカウラー王がギザの3大ピラミッド造営。

エジプト第1中間期(第7?第10王朝) [編集]
紀元前2200年頃、内乱(第1中間期)。

エジプト中王国時代(第11?12王朝) [編集]
青銅器時代に入る。
首都:テーベ

紀元前2040年頃、再統一(エジプト中王国時代)。
紀元前1900年頃、センウセレト2世がアル・ラフーンにピラミッド(ラフーンのピラミッド)造営
紀元前1850年頃、センウセレト3世がヌビアに遠征。
紀元前1800年頃、アメンエムハト3世がファイユーム盆地を開発。ハワーラのピラミッド造営

エジプト第2中間期(第13?第17王朝) [編集]
紀元前1785年頃、内乱(第2中間期)。
紀元前1650年頃、ヒクソスによる下エジプト支配(第15?16王朝)。
紀元前17世紀、古代イスラエルの人々がヤアコブの時代に移住してくる。後に400年間奴隷となる。

エジプト新王国時代(第18?20王朝) [編集]
領土がナイル川流域を越えて最大版図となり、「帝国時代」とも呼ばれる。
首都:テーベ

紀元前1540年頃、イアフメス王によるヒクソス放逐、再統一(エジプト新王国時代)。
紀元前1500年頃、トトメス1世がユーフラテス河畔に進出。
紀元前1490年頃、ハトシェプスト女王の統治。
紀元前1470年頃、トトメス3世によるアジア遠征。
紀元前1360年頃、アメンホテプ4世(アクエンアテン)によるアマルナ宗教改革(伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止、太陽神アテンの一神崇拝に改める。世界最初の一神教といわれる)。戦闘を避けたため国力が一時低下する。
紀元前1345年頃、ツタンカーメン王によるアメン信仰復活。
紀元前1300年頃、セティ1世によるアジア遠征。
紀元前1285年頃、カデシュの戦い(ラムセス2世、対ヒッタイト)。
紀元前1270年頃、ヒッタイトと和平条約。
紀元前13世紀、古代イスラエルの人々が、モーゼとともにエジプトを脱出。後に一神教のユダヤ教の元になるグループである。
紀元前1220年頃、海の民の侵入。

エジプト第三中間期(大司祭国家、第21?第26王朝)
残る1000年は、ゆっくりと衰退していく。

紀元前1080年頃、アメン神官団の長ヘリホルがテーベに神権国家を立てる。
紀元前945年頃から、ヌビア、アッシリア、アケメネス朝、ギリシャ、ローマなどの他民族支配により衰退。
紀元前730年頃、クシュ(ヌビア)王ピイ、エジプト征服。
紀元前671年、アッシリア王エセルハドンの侵入。
紀元前655年、プサメティコス1世、アッシリアから独立。

エジプト末期王朝(第27?第31王朝)
紀元前525年、アケメネス朝ペルシア王カンビュセスのエジプト征服、支配。
紀元前404年、ペルシアから独立。
紀元前341年、アケメネス朝ペルシア王アルタクセルクセス3世のエジプト再征服、支配。

プトレマイオス朝
ギリシャ人による王朝。

紀元前332年、マケドニア王アレクサンドロス(アレキサンダー大王)により征服される。
紀元前305年、アレキサンダー大王の死後、マケドニアの将軍がプトレマイオス1世として即位(プトレマイオス朝開始)。
紀元前30年、クレオパトラ7世自殺。ローマの属州(正確には皇帝の私領)となる。

古代エジプトの通貨
古代エジプトでは、貴金属が貨幣として使われた。初期には金属を秤で量ってやりとりされたが、後期には鋳造貨幣が用いられた。

興味深い例としては、小麦などの穀物を倉庫に預けた「預り証」が、通貨として使われたこともある。現在の通貨と違うのが、穀物は古くなると価値が落ちるということである。したがって、この通貨は長期保存の出来ない、時間的に価値の落ちて行く通貨である。

結果として、通貨を何かと交換して手にいれたら、出来るだけ早く他の物と交換する事が行われたため、流通が早まった。その結果として古代エジプトの経済が発達したといわれ、この事例は地域通貨の研究者によって注目されている。

また、ローマの影響下で貨幣が使われるようになった結果、『価値の減って行く通貨』による流通の促進が止まり、貨幣による富の蓄積が行われるようになりエジプトの経済が没落したという意見もある。

メソポタミアとの交流
ヒエログリフの誕生については、メソポタミア(シュメール)から文字の観念が伝わり、ナイル川沿岸で独自に字形を作り出したとする人も多いが、はっきりとしたことはわかっていない。現在メソポタミアの文字よりも、ヒエログリフの方が年代的に500年ほど古いものが出土しているが、今後のより一層の研究が待たれる。
紀元前3000年頃にメソポタミアからワインとビールが伝わりエジプトでも生産が始まった。ワインは高貴な酒で一般市民はビールをのんだが、後に生産量が増えて市民にも広まった。
エジプト国内においては木材資源が乏しかったため、主としてレバノン杉を移入して用いていた。

その他
1%程度の少ない貴族階級が土地を所有し支配していた。残る99%であるほとんどの一般市民は小作だった。ファラオによって土地を与えられることにより貴族となるが、ファラオが交替したり、王朝が変わると、土地を取り上げられ貴族ではなくなる事も多く、貴族は必ずしも安定した地位にあるわけではなかった。
上下のエジプトに分かれていたが、後に統一された。なお、前述のように上下というのはナイル河の上流・下流という意味であり、ナイル河は北に向かって流れているため、北にあたる地域が下エジプトである。
1日を24時間としたのは、エジプトだと言われている。昼と夜の時間をそれぞれ10時間、計20時間とされていた。しかしその後、昼と夜との境界の時間をそれぞれに加え、24時間と制定されたとされる説が有力である。

古代エジプト用語
ファラオ - 神権皇帝。わずかな例外を除き男性。継承権は第一皇女にある。したがって第一皇女の夫がファラオになる。神権により支配した。名前の一部には神の名前が含まれる。
ネメス - ファラオの付けている頭巾。

2009年04月05日

バレエ団

バレエの優れた上演には照明や舞台装置などの効果的使用が欠かせない。このためバレエの上演には一般に費用を要し、多くの国で国立のバレエ団が組織される。民間のバレエ団も著名なものは多額の寄付を集めて運営することが多い。

著名なバレエ団には以下のものがある。

フランス
パリ国立オペラ - 世界最古のバレエ団。1661年王立舞踏アカデミーとして創設。
バレエ・リュス - セルゲイ・ディアギレフが設立したロシア人主体のバレエ団。パリを拠点に活動した。
ロシア
ボリショイ・バレエ (1778年?)
マリインスキー・バレエ(旧キーロフバレエ、1783年?)
ドイツ

ベルリン国立バレエ団 (2004年?)
シュツットガルト・バレエ
ハンブルク・バレエ
オーストリア
ウィーン国立歌劇場バレエ団
イギリス
ロイヤル・バレエ団 (1931年?)
バーミンガム・ロイヤル・バレエ団 ( 同 )
※起源はヴィク・ウェルズ・バレエ団で、元は同じ
イタリア
ミラノ・スカラ座・バレエ団 - オペラ優位のイタリアでは永くバレエは省みられなかったが、1990年代以降バレエ部門の立て直しが進んでいる。
オランダ
オランダ国立バレエ団
ネザーランド・ダンス・シアター
オーストラリア
オーストラリア・バレエ団
アメリカ合衆国
アメリカン・バレエ・シアター
ニューヨーク・シティ・バレエ団
※日本のバレエ団については、下の「日本のバレエ」を参照のこと。

ダンサーの階級 [編集]
バレエ団によっては、ダンサーの階級ついて固有の呼び方がある。主役級のエトワール、プリンシパル、プリマ・バレリーナ、それに次ぐ準主役級のソリスト、コール・ド・バレエ(群舞)を踊るカドリーユ、アーチストなどがある。

オペラ座バレエ団の場合
エトワール
プルミエ・ダンスール(女性の場合はプルミエール・ダンスーズ)
スジェ
コリフェ
カドリーユ
ロイヤル・バレエ団の場合
プリンシパル
ソリスト(トップはファースト・ソリスト)
アーチスト(トップはファースト・アーチストまたはコルフェ)

バレエに関係する芸術家 [編集]
バレエの上演に関係する芸術家には、バレエ音楽の作り手である作曲家、マイムを含めたダンスを指定する振付家、指揮者を含むバレエ音楽の演奏家、そして舞踏によってバレエを実現し完成するダンサーなどがいる。

作曲家 [編集]
著名なバレエの作品の作曲家には以下の者がいる。詳細はCategory:バレエ作品も参照のこと。

(以下3大バレエを中心に)

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(「プロメテウスの創造物」)
アドルフ・アダン(「ジゼル」)
レオ・ドリーブ(「コッペリア」「シルヴィア」)
ピョートル・チャイコフスキー(「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」)
エリック・サティ(「パラード」「メルキュール」「本日休演」)
アルベール・ルーセル(「くもの饗宴」「バッカスとアリアーヌ」「エアネス」)
モーリス・ラヴェル(「マ・メール・ロワ」「ダフニスとクロエ」「ラ・ヴァルス」「ボレロ」)
マヌエル・デ・ファリャ(「恋は魔術師」「三角帽子」)
オットリーノ・レスピーギ(「風変わりな店」)
バルトーク・ベーラ(「かかし王子」「中国の不思議な役人」パントマイム)
イーゴリ・ストラヴィンスキー(「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」)
セルゲイ・プロコフィエフ(「ロメオとジュリエット」「シンデレラ」「石の花」)
ダリウス・ミヨー(「屋根の上の牡牛」「世界の創造」)
アラム・ハチャトゥリアン(「幸福」「ガイーヌ」「スパルタクス」)
アーロン・コープランド(「ビリー・ザ・キッド」「ロデオ」「アパラチアの春」)
ルイージ・ダッラピッコラ(「マルシア」)
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(「黄金時代」「明るい小川」「ボルト」)
ベルント・アロイス・ツィンマーマン(「ロワ・ウブ」)
ルイジ・ノーノ(「赤い外套」)
ハンス・ウェルナー・ヘンツェ(「オルフェウス」)
嶋津武仁(「波の音楽」電子音楽)

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2009年03月21日

鉄道のダイヤグラム

鉄道のダイヤグラムは、時間を横軸、距離を縦軸にとり、駅・信号所名を縦軸上に配置したグラフ状の形態(ダイヤ図)である。逆に距離を横軸に、時間を縦軸にとったダイヤ図も用いられることがあるが、基本的な考え方は同じであり、以下では時間を横軸にとった形態を前提に説明する。

下りの起点駅が一番上に配置され、ここを原点として距離は下向きに、時間は右向きに増加する。そして一つの列車は一本の線(スジ)で表現される。従って始発駅を出発した列車、すなわち下り列車は右肩下がり、反対に上り列車は右肩上がりの折れ線を描く。できるだけスジが直線となるよう、駅は通常駅間の距離ではなく所要時間に基づいて配置される。線の傾きは列車の速度を表し、速い列車ほど線の傾きは大きくなり、水平な線(傾き0)は停車を表す。

単線区間においては駅間で上下列車の交換ができないので、駅間でスジが交差することはない。複線区間であれば上下列車の交換はどこでもできるので、駅間でスジが交差することがあるが、追い抜きはやはり待避設備のある駅に限られる。こうした待避関係はダイヤグラム上で図示すると一目瞭然となる。このため、単線区間と複線区間の配置などもダイヤの脇の方に併記されている。この他、電化区間や自動列車保安装置など、列車の運行に影響を与える情報が併記されている。
キーワ マラガ エンドロ せきがく ゆずりは シリアス パンパ ミント 春紫苑 ヒッピ マスタ ビューロ シーア ネーム たこあし スミス ビリティ ニッパー パンチ メチエ マフラー ガビアル きがん デュープ ナップ キーポイ うぐい ラティーノ テキスト キミと僕 サイトリー バーミュ マティ たいこう トトス フォーク ジンキケロ バランス フラッペ ルネサ シンシティ メリット トーン ファントム ジャングル エレジー タンク タール 光夜宴 プルーフ

一般に公表される時刻表は1分単位であるが、ダイヤの上ではもっと細かい単位で計画が立てられている。この目的で、スジの駅線との交点には秒単位での発着時刻を表現する記号が付けられており、鉄道会社内部ではこの記号のことを「ヒゲ」「ポツ」などと呼んでいる。この記号の使い方や時間単位は鉄道会社によって異なっている。

なお、上の形態に対して車両の運用や乗務員の乗務スケジュール(行路)を示すために作成される「ハコダイヤ」、構内作業計画を行うための構内作業ダイヤと呼ばれるものがあるが、スケジュールや計画を鉄道の運行図表になぞらえた、あくまでも俗称であり、区別のために通常のダイヤグラムを「山型」と呼ぶ場合がある。ハコダイヤに関しては運用を参照。

ダイヤの作成 [編集]
ダイヤを作成するに当たっては、路線ごとの輸送需要や線路容量、車両の速度種別や運用効率、乗務員の運用等が勘案される。所要時間については、車両性能や制限速度に基づき地点ごとの速度を表した運転曲線(ランカーブ)から基準運転時分を定め、そこに余裕時分を加えて決めている。普通列車と比べ、優等列車の運転時刻が優先的に決められる場合が多い。

手順としては最初に1時間ごとの大まかなダイヤグラムを作り、その後10分ごと数分ごととダイヤグラムを作っていき最終的には15秒単位の二分目ダイヤを作っていく。路線によっては一分目ダイヤを使うこともある[1]。

混雑している路線でより多くの列車を運行するためには、閉塞の割り振りを見直したり、新型の運行保安装置にしたりといった方法がある。折り返し駅における計画はボトルネックとなりやすく、駅の配線を最適化したり、乗務員の折り返しを同じ列車ではなく後の列車にする「段下げ運用」を採用したりといった方法が採られる。また列車間隔が短い路線において乗降客数が多い駅では、2つの番線に交互に列車を発着させる相互発着が採用されている。

ダイヤの作成に際しては、線路の容量をフルに使うのではなく、ある程度の余裕を見込む必要がある。特に保線作業を行うために必要な時間を確保する必要があり、これを保守間合いという。通常は夜間に保守間合いが確保されるが、主要な路線においては夜行列車や貨物列車の運転との兼ね合いが最大の問題となる。時には、昼間に大規模に列車を運休してリフレッシュ工事を行うこともある。

2009年03月06日

ジュリアン・コルベット卿(1854年-1922年)

海軍戦略は海上における国益の保護、獲得のための海洋戦略に関わる戦略である。狭義には戦時において方面作戦を計画・準備し、海軍力を配置・運用することによって、海戦術を効果的に発揮して戦うことが可能となる。また広義には平時における海洋戦略の中心として、政治目的の達成のための外交政策や海上交通路や海洋権益の維持や開発支援などを行うことができる。

その国家の海洋との位置関係にもよるが、海洋は非常に重大な国益と関係していることが多い。食料資源地域、工業資源地域・エネルギー資源地域としても海洋には有用な地域であり、また海上交通路は軍事作戦、貿易、輸送において非常に重要な価値を持つ。また国土が海洋と接触している場合、領海を守ることも国土防衛のために有効な手段であり、一方で敵国に戦力投入を行う場合では海域の制海と陸上部隊への火力支援及び後方連絡線の確保などが遂行できる。外交政策と連携して行われる示威活動や軍事交流を行う場合でも艦艇の持つ政治的象徴性は大きな意味を持っている。また現代では核兵器の登場に伴って海上戦力は戦略的核抑止力としての機能も備えるようになった。以上の活動を行うためにはどれも制海権が関係してくる。制海権は敵海上戦力の破壊または無力化、敵指揮機能の破壊または無力化、敵陸上支援施設の破壊または無力化などによって得られる。[1]

海軍戦略の下位には海戦術があり、艦艇あるいは艦隊が海戦において、どのように機動・攻撃するかを企画し実際に指揮統率するための技術・科学である。ただし海戦は戦略配置によって大きく勝敗が左右されるために海戦術はの影響は海軍戦略よりも劣る。例えば日露戦争において日本海軍はロシア海軍部隊が対馬海峡を通過するのか、津軽海峡を通過するのかについて上層部で見解が分かれ、対馬海峡を通過して来ると判断して対馬海峡に部隊を配置すると決心したことは、日本海海戦の勝利に大きく寄与した。

造船・航海技術・軍事技術の進展によって海軍戦略は発展するものである。これは艦艇に装備する火砲が前込め砲から後込め砲になり、その艦艇も帆走から機走、木製から鉄製に変化し、機雷や魚雷、潜水艦や航空機の登場などに起因するものである。また海外領土と通商の重要性が増すと共に制海権の保持という海軍の基本的な任務が発展していった。

歴史
「存在する艦隊」
トリントン伯アーサー・ハーバートは最初に「存在する艦隊(fleet in being)」という言葉を使ったとされている。1690年、はるかに優勢なフランス艦隊に直面して、トリントンは特に形勢の良い場合を除き戦闘を回避し、援軍の到着を待つことを提案した。彼の戦隊が「存在する」ことで、フランスが海の覇権を取ることを妨げ、イギリスを侵略から守れるとした。トリントンはビーチヘッド海戦を戦うことを強いられ敗れたが、「存在する艦隊」戦略による自国艦隊の喪失回避に徹したため、フランスを海の覇者とするまでには至らせなかった。

通商破壊
通商破壊(the guerre de course)とは敵の通商を妨害するために敵国の商船団を海軍力を以って攻撃することで間接的に敵を減衰させる戦略である。1690年代の中頃にフランスの大西洋岸の港、特にサン・マロとダンケルクからの私掠船が同盟関係にあるイギリスとオランダの交易にとって大きな脅威だった。イギリス政府は、軍艦を商船隊の護衛に、巡視船を私掠船狩りに派遣した。フランスでは、イギリス・オランダに対する私掠船の成功から、軍艦を戦闘のために使う(guerre d’esquadron)よりも貿易戦争を支援する通商破壊(guerre de course)の方向に変えつつあった。イギリス・オランダの商船隊は、通商破壊艦隊の大きな目標だった。この政策転換の結果、1693年6月17日、トゥールビーユ伯が同盟スミルナ商船隊を襲い劇的な成果を上げた。

貿易戦争支援を艦隊の戦略とすることの不利は、自国の商船を無防備にすることである。個々の襲撃隊は敵が大きな部隊を派遣してきたときは散々に打ち負かされてしまう危険性もある。1806年のサンドミンゴの海戦におけるレッセグや1914年フォークランド諸島の戦いにおけるフォン・シュペーの例がある。

海上封鎖
海上封鎖とは海軍力で敵の港湾の出入港を封鎖することである。17世紀末までは、9月から5月ないし6月まで、大型船を港外に出しておくことは不可能あるいは軽率なことと考えられていた。それ故に敵をその港に閉じ込めておくことは、いかなる海軍でも無理であった。更に敵を止めているよりも前に海に出ているかもしれず、艦隊の任務は商船隊の護衛の方に回された。最初の海上封鎖は1758年-59年イギリスのエドワード・ホーク卿によって開始され、セントビンセント伯によって、また1793年から1815年の他の提督達によって完成された。

マハンのシーパワー
シーパワーは海軍力を含めた海洋に関する国家の能力である。アルフレッド・セイヤー・マハンはアメリカの海軍少将であり、歴史学者でもある。アントワーヌ・アンリ・ジョミニの戦争概論に影響された彼は、来るべき戦争では制海権を持つことが貿易や戦争遂行に必要な資源を管理するシーパワーが必要になると考えた。

マハンの提言では、18世紀英仏間の戦争では海軍力により海上を制した方がその成果に直結したことを示しており、それ故に、海上貿易を支配することが戦争を前に最も大切なことであるとした。マハンの見解では、敵艦隊を破壊するか行動を抑えてしまうポイントにその海軍力を集中させれば制海権をとることができる。敵軍の港を封鎖したり、その連絡網を遮断したりすることがその次の戦略である。マハンは海戦の真の目的は常に敵艦隊にあると信じていた。

マハンの著書『海上権力史論』は1890年に「仏国革命時代海上権力史論」は1892年に出版され、彼の理論が1898年から1914年にかけて海軍戦略に大きな影響を与え、さらにその後の軍備拡張競争に影響を与えた。
バース むぐら ティラミス スカーレット テキーラ 吉日 メルルー ももいし 高潔 サーチ花粋 オーラップ フロア ブイヤ マデイラ シュロ コムタン 滝の白糸 西村 ネガ トール いこて ツリフネソ ミドル マインド ビッグ ラット レックス 夾竹桃 キエフ ラクーン ブルガリ チョッパー メンデル バリウ モルガ ピュアコ バグダッド ひおき マイナ トウガラシ なんぽろ ライフボート ルミッ リアダ ステロール ジャスミン 水玉シャツ ジャンボ シプル パスボール

コロン兄弟
イギリスにおいてはジョン・H・コロン船長(1838年-1909年)が論文や講義の中で、海軍は帝国の防衛のために最も重要な要素であると主張した。彼の兄、フィリップ・ハワード・コロン(1831年-1899年)は、彼の著書「海戦」(1891年出版)の中で、近代海戦に適用できる歴史的法則を見いだそうとした。しかし、彼らの著作はマハンほどの影響を及ぼすことはできなかった。

コルベット
ジュリアン・コルベット卿(1854年-1922年)は、イギリス海軍の歴史学者であり、イギリス帝国海軍大学で教鞭を取っていた。

コルベットは、マハンの理論とは異なり、戦闘に重点を置いた。彼は海戦と陸戦の相互依存関係を重視して海戦の目的が制海権だけでなく敵の海上貿易を破壊することであり、通商破壊で敵を減衰させることが海軍戦略であると考えた。また戦闘そのものよりも海上での通信連絡の重要さを認め、艦隊の主目的は連絡網の確保と、敵の連絡網の破壊であり、必ずしも敵の艦隊を破壊することを求めるべきではないとした。

コルベットにとって、制海権は相対的なものであり絶対的なものではない。一般的あるいは地域的な論議、一時的か恒久的かといったカテゴリーに区分けされるものであるとした。コルベットは支配的な連絡網を確保するための2つの方法を提案した。敵の軍艦や商船を破壊または捕獲する物理的な方法と、海上封鎖である。 彼の著作「海軍戦略の原則」はこの世界の古典となっている。

世界大戦の影響
第一次世界大戦では、潜水艦が導入され、新兵器の開発と海戦の戦術開発につながった。2つの世界大戦で、潜水艦は主に商船の破壊活動に使われ、それ自身が制海権を確保するものではない。しかし、潜水艦という形の「貿易戦争支援」戦略が1917年にはイギリスを瀬戸際まで追い込み、遅まきながら護送船団(コンボイ)の再導入ということになった。同じ戦略をアメリカが第二次世界大戦中の1943年から太平洋で採用し、日本軍を負かした。

ドイツは海上艦や他の補助的な商船破壊手段を使って連合国の貿易活動を妨げようと試み、かなりの成果と時間的な遅れをもたらしたものの、両大戦とも連合国軍の連絡網を完全に破壊するまでには至らなかった。

空軍の開発でさらに戦術的な変化が起こった。航空母艦を含む艦隊の出現である。アメリカ軍は、太平洋の日本軍に占領された島々をすべて落としていくよりも、飛び石伝いに艦隊基地や航空基地を作るために必要な島のみを落としていく戦略(アイランドホッピング)を取った。第二次世界大戦の終わりまでに、制海権は海上の制海権ばかりではなく、その上空や海中をも含むようになった。

現代の海軍戦略
海軍戦略は、陸や空の戦いを含む総論的な戦略に変わってきた。 海軍戦略は技術の進歩とともに常に発展を続けている。例えば冷戦時代のソビエト海軍は、NATOに対抗してブルーウォーター(外洋)を支配することから、バレンツ海やオホーツク海の砦を守る方に戦略を変えた。

2009年02月14日

FairlyLife

「船見学園」に通うごく普通の生徒である少年「高岡晃範」は幼馴染の「山南南」とその日の朝、いつものように登校していた。二人が学園に到着したとき、学内の体育館にすさまじい爆音が鳴り響いた。ニュースによると、コントロールが利かなくなった人工衛星が墜落したのだという。墜落現場に向かった二人だったが、不思議なことにそこには衛星の破片らしきものがまるで見当たらない。代わりにそこで発見されたのは背中にロケットブースターを背負った謎の少女だった。「あさがお」と名乗るその少女は、自分こそが墜落した人工衛星だと主張する。彼女は晃範に会いたいがために人の姿になって宇宙から地上に降りてきたというのである。その日を境に、晃範の周囲では携帯電話や冷蔵庫、ティッシュボックスといった様々なモノが「擬人化」し始める。
キネテ 紅葉の旅 菊座おり しぼり キューシ チェリー シンボル オートキプ ニース オレン よぶすま ラン タイト フォール オムレツ フーガ グマー ディム ドナルドック かみす ラビ ふじ豆 エッグ エッジボール レプラ タロッ 全国通 タウン ガーネット スイッチ デニム マハラ ロール コロンブス タスク フェーン パツ バルカン スケッチ タロー プレッピ ロッタリ メッキ しとみや スイー ロード ハドロン ゆうじょ テーベ

高岡 晃範(たかおか あきのり)
この物語の主人公。「船見市」に位置する「船見学園」の2年生男子生徒。両親は共に科学者で研究所に滞在していることが多く、めったに家に帰ることがない。眼鏡をかけており真面目な性格の優等生。自室にはテレビが置かれているが、天気予報などを除いて放送番組を観ることはほとんどない。また、宇宙の話が好きらしく、自室の天井からは太陽系の惑星と思われる天体模型が吊るされている。南やあさがおといった一癖も双癖もある面々に振り回され苦労することが多く、いつも胃薬を持ち歩いている。
山南 南(やまなみ みなみ)
声:桃井穂美
晃範の幼馴染であるクラスメイトの女子生徒で船見学園の生徒会長でもある。晃範のことを「アッキー」と呼び、初対面の相手に彼を紹介するときも「高岡アッキー」と言ってしまうというかなりの変人。異常なまでに明るく、ポジティブ思考の持ち主で一般的な生徒会長のイメージとはかけ離れた性格であり、楽しいことが第一だと考えている。生徒会の活動中も悪ふざけをして話を脱線させるようなことが多い。しかし、なんだかんだと言って学内での人気は高い。いつも「いいよね! うん、決定♪」のようなノリで大事なことを決めてしまう勝手気ままな人物であり、晃範のことを本人の承諾なしに生徒会副会長に推薦し、あさがおが現れた翌日には正式に就任させ、その数日後には本来9月に行われるはずの学園文化祭を4月に実行することを提案してしまった。父親は船見市の市長を務めている。
高岡 あさがお(たかおか あさがお)
声:木ノ下やや
船見学園の体育館に突如として現れた少女。その正体は晃範が子供の頃に彼の両親によって開発され打ち上げられた人工衛星「あさがお」。数年前、主アンテナに故障が発生し、十分に観測を行えなくなっていた。しかし、自分がまだ地上で開発されている頃、研究所にやってきた晃範に「僕の平和を守って」と言われたことを思い出し、その後もずっと宇宙から彼のことを見守り続けていた。晃範に会いたいという気持ちが募った結果、気が付くと人の姿になって地上に降りていたのだという。その後、「高岡あさがお」として船見学園の生徒となり、晃範、南と同じクラスに転入する。
外見はほとんど人と変わらないが頭の左右両側にソーラーパネルのような2枚の板が付いている。晃範や彼の友人たちの平和を守ることが自分に課せられた使命だと感じており、困った人を見つけると放っておかずにすぐに飛んでゆく。健気で前向きな頑張り屋であるが、その気持ちが強過ぎるあまり、かえって晃範を困惑させてしまうことも。「レーザービーム」「ロケットパンチ」「ビームシールド」といった平和を守るための「48の必殺技」を使えるらしい。
高岡 未来(たかおか みく)
声:北野妙
晃範が南とおそろいで購入していた高機能のワンセグ携帯電話。晃範は買ってから箱に入れたまま一度も使っていなかったが、生徒会副会長となったのを機にようやく持ち歩こうという気になった。うまく作動しなかったので一度購入店で修理してもらってから家に持ち帰った後、晃範が少し目を離している間に、あさがおと同様「擬人化」していた。頭の両側にアンテナと携帯ストラップが付いている。
性格は冷静沈着で、淡々とした口調であり何事も論理的に考えようとする。あさがおと同じように晃範たちのクラスに編入した後、計算・分析能力の高さを買われて生徒会の会計係に就任する。「未来」という名は晃範が付けたものである。犬が苦手で、姿を見ると少し怯えてしまう。ユーザーからの人気が高く、南やあさがおを抜いて今作の看板キャラクターとなっており、後に未来を取り上げたミニファンディスク『みくりまくり』も製作された。
沢渡 弓月(さわたり ゆづき)
声:細田なな
船見学園で学園祭が行われる前日に晃範たちのクラスに転入してきた少女。ほとんどテレビを観ることのない晃範も知っているほどの国民的アイドル。あまりの人気の高さゆえに生徒会が彼女の警護をすることになった。学園祭では晃範たち生徒会の出し物であるお化け屋敷に参加する。いつもにこやかで優しく、とても礼儀正しいが、彼女は実は……。
五味 優(いつみ ゆう)
声:星咲イリア
あさがお、未来に続いて晃範たちのクラスに転入してきた少女(登場は弓月より早い)。何かと気が強く、転校初日にして船見学園生徒会に「敵対宣言」をした。両親は共に犬の訓練士であり、自らも「グスタフ」という名の雄犬を連れたまま登校している。制服の袖に両腕を通さずマントのように肩から羽織っている。文化祭ではクラスの出し物である「犬耳喫茶」のウェイトレスをした。グスタフは犬掻きで泳ぐことができるが、優はカナズチで全く水泳ができない。

サブキャラクター
小冷(おれい)
声:桜川未央
晃範の部屋にあるミニ冷蔵庫が擬人化した少女。あさがおや未来とは違い、2頭身でマスコットのようなキャラクター。毒舌で飄々とした性格であり、晃範のことを「あきぽん」、南のことを「みなみん」、未来のことを「みくみく」と呼ぶ。
消し子mkII(けしこマークツー)
声:神月あおい
新入生の教室にある黒板消しが擬人化した少女。『Like Life』の登場キャラクター「消し子」の2代目的な存在で担当声優も同じ。マスコットタイプ。あさがおの攻略ルートのみに登場する。
高岡 ちり(たかおか ちり)
声:草柳順子
高岡家にあった箱入りのティッシュペーパーが擬人化した少女。気弱でなよなよとした雰囲気を持つ。白いティッシュペーパーで体をドレスのように覆っている。マスコットタイプ。
ランタン様(らんたんさま)
声:歯粉崎みどり
南がもっていたカボチャのアクセサリーが擬人化した少女。「妾(わらわ)は神じゃ」など古風な言葉を使う。マスコットタイプ。
あゆみ
声:長谷川かのん
町の商店街にある募金箱が擬人化した少女。頭の上に「歩美の箱」と書かれた木箱を載せている。マスコットタイプ。
中里 結花子(なかざと ゆかこ)
声:大波こなみ
晃範の従姉。両親がほとんど家にいない晃範の保護者ということになっているが、家事の類は晃範に任せきりである。晃範の両親と同様科学者であり、あさがおの整備を担当しているが、マッドサイエンティストでもあり、晃範の脳髄を取り出したいと思っているらしい。結花子のために高岡家の一部は研究室になっており、様々な機械が置かれている。
有栖川 京華(ありすがわ きょうか)
声:静野ももか
晃範たちのクラスの担任である女性教師であり、生徒会顧問。生徒たちの悩みの相談役となるカウンセラーも務めているが、カウンセリングという名の「説教」により、かえって相手を精神的に追い詰めてしまうことがほとんど。生徒の中にはそのことにより病院送りになったものもいる。そのため彼女は「ラストカウンセラー」と呼ばれ恐れられている。自分のことを人工衛星や携帯電話だと主張するあさがおや未来のことをクラスの生徒たちのほとんどは素直に信じたが、有栖川はそれを受け入れず、彼女たちは精神病を患っているのだと思っている。
真鶴 竜生(まなづる たつき)
声:柳沢降臨
船見学園風紀委員会の副委員長である3年生男子生徒。かつて行われた生徒会長選挙で南に敗北したことから生徒会をやたらと敵視しており、晃範が副会長となってからは主に彼に対してちょっかいを出すようになった。いわゆるナルシストであり、自分こそが学園の指導者にふさわしいと勝手に思い込んでいる。
グスタフ
声:柳沢降臨
優が飼っている大型犬。雑種のオス。全身が黒い毛で覆われており、首には赤いスカーフが巻かれている。優の転校初日も彼女と共に学園にやってきたが、優が学園の駐輪場で派手に自転車をなぎ倒してしまい、それを直している間に先に教室にやってきてしまった。そのため、有栖川から間違えて転校生の優だと紹介されてしまい、晃範たちはあさがおや未来が擬人化したのと同じ原理で五味優という少女も雄犬の姿になってしまったのだと勘違いしてしまった。
頼子(よりこ)
声:朝倉四季
生徒会室で4年間に渡って使われていたコピー機が擬人化した女性。会社で働くOLのような服を着ており、見た目は人間とまったく変わらない。いつも優しく、進んでお茶を淹れてくれるなど、とても気が利く。晃範から「これからも頼りにしている」という意味をこめて「頼子」と名づけられた。
加奈子(かなこ)
声:藤森ゆき奈
昔誰かが学園に置き忘れた傘が擬人化した少女。昔風の黒いセーラー服を着ている。いつも水に濡れており、肩にはてるてる坊主が乗っている。暗い性格で少し不気味な雰囲気がある。小冷、ちり、ランタン様たちと一緒に学園祭のお化け屋敷に参加した。
自販子(じはんこ)
声:新堂真弓
町にあった自動販売機が擬人化した女性。露出度の高い服を着ている。胸に触った後、スカートの中に手を入れるとドリンクが取り出せるようになっている。
曽我部 冬子(そがべ ふゆこ)
声:歯粉崎みどり(ゲーム)、あきやまかおる(ドラマCD)
風紀委員の委員長を務める3年生女子生徒。真鶴竜生とは同級生。大きな眼鏡をかけているのが特徴。竜生や他の風紀委員とは違い穏健派で晃範たち生徒会にも一定の理解を持っている。

2009年01月28日

日本海海戦(にほんかいかいせん)

日本海海戦(にほんかいかいせん, 1905年5月27日 - 5月28日)は、日露戦争中に日本とロシア帝国との間で戦われた海戦である。
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日本以外では一般に対馬海戦(つしまかいせん, Battle of Tsushima)と呼ばれる。対馬東沖を戦場として、日本海軍の連合艦隊とロシア海軍の第2及び第3太平洋艦隊(日本では「バルチック艦隊」の呼び名が定着している)との間で行われた。日本艦隊の司令官東郷平八郎が採用した丁字戦法などにより、ロシア艦隊は戦力の大半を失い壊滅した。日本側の損失は軽微で、海戦史上まれな一方的勝利となった。当時後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせ、ポーツマス講和会議への道を開いた。

バルチック艦隊
ロシア海軍は日露戦争開戦時に日本海軍の3倍近い戦力を保有していたが、艦隊をバレンツ海、バルト海、黒海、太平洋の各方面に分散させていたため、開戦時に対日戦に投入できたのは旅順およびウラジオストクを母港とする太平洋艦隊(正式には第1太平洋艦隊)のみであった。ロシア指導部は太平洋艦隊のみでは日本艦隊に対抗できないと判断し、バルト海艦隊から主力艦艇を抽出して極東海域へ増派することを決定した。派遣部隊として、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督を司令長官とし[3]新鋭戦艦8隻を基幹とするバルチック艦隊(正式にはバルト海艦隊から抽出された第2太平洋艦隊)と、ニコライ・ネボガトフ提督を司令長官とする補助艦隊(同じく第3太平洋艦隊)とが編成された。これらの戦力と既存の艦隊とを合わせれば、日本艦隊の2倍の戦力となり、極東海域の制海権を確保できると考えられた[4]。

しかし当時、石炭補給が常に必要となる蒸気船からなる大艦隊を、水兵と武器弾薬を満載した戦時編成の状態で、ヨーロッパから東アジアまで回航するのは前代未聞の難事であった。さらに、航路は日本と日英同盟を締結していたイギリスの制海権下にあり、良質な石炭はイギリスが押さえていたため劣悪な質の石炭しか入手できる見込みはなかった。ロシアと露仏同盟を結んでいたフランスや、皇帝同士が姻戚関係にあったドイツ帝国も、日英同盟によって牽制を受け、中立国の立場以上の支援を行うことはできなかった[5]。

前哨
ロシアの艦隊は大きく2波に分かれてアジアまでたどり着いた。
ロシアの艦隊は大きく2波に分かれてアジアまでたどり着いた。
[編集] バルチック艦隊の出航
1904年10月15日、バルチック艦隊はリバウ軍港を出航した。10月21日深夜、バルチック艦隊は北海を航行中にイギリスの漁船を日本の水雷艇と誤認して攻撃し、乗組員を殺傷してしまう(ドッガーバンク事件)。これによってイギリスの世論は反露親日へ傾き、イギリス植民地の港へのバルチック艦隊の入港を拒否した。以後バルチック艦隊はイギリス海軍の追尾を受け、これをしばしば日本海軍のものと勘違いして、将兵は神経を消耗させられた。[6]

1905年3月16日、バルチック艦隊はフランス領マダガスカル島のノシベ港を出航した。この時点で旅順要塞は陥落し旅順艦隊は壊滅していたため、日本艦隊に対する圧倒的優位を確保するという当初の回航の目的は達成困難になっていたが、バルチック艦隊はウラジオストクを目的地として航海を続けた。インド洋方面にはロシアの友好国の港は少なく、将兵の疲労は蓄積し、水、食料、石炭の不足に見舞われた。5月9日、第2・第3太平洋艦隊はフランス領インドシナのカムラン湾で合流した[6]。

連合艦隊の警戒網
日本海軍の連合艦隊は、1904年8月10日の黄海海戦でロシア太平洋艦隊主力の旅順艦隊に勝利し、8月14日の蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊にも勝利して、極東海域の制海権を確保した。1905年1月1日には旅順要塞が降伏して旅順艦隊の残存艦艇も壊滅したため、一旦ドック入りさせると共に、入念に射撃訓練を行ない、バルチック艦隊の迎撃に専念できるようになっていた。

問題はバルチック艦隊をどこで捕捉迎撃するかである。カムラン湾からウラジオストクへの航路としては対馬海峡経由、津軽海峡経由、宗谷海峡経由の3箇所があり得た。3箇所すべてに戦力を分散すれば各個撃破されかねず、戦力を集中していずれか1箇所に賭けざるを得なかった。とはいえ、バルチック艦隊が宗谷海峡を通過するためには、距離が遠いため日本本土の太平洋側沖合いで石炭を洋上補給する必要がある。津軽海峡は日本側の機雷による封鎖が厳重になされていた。このようなことから連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、バルチック艦隊は対馬海峡を通過すると予測し主力艦隊を配置するとともに周辺海域に警戒網を敷いた。

通報
5月14日、バルチック艦隊はカムラン湾を出港した。連合艦隊はバルチック艦隊が19日にバシー海峡を通過したという情報を得たが、以降は所在がつかめなくなった。このときバルチック艦隊は長時間の演習や石炭の積み込み、さらには1隻の機関不調に時間を取られていたのだが、連合艦隊ではバルチック艦隊が太平洋から北海道へ向かった可能性も想定せざるを得なくなり、次第に焦り始めていた。24日に至り、東郷は大本営に対して北海道への移動をほのめかす電報を送っている。大本営は慎重を期す旨の返電を送り、東郷は26日正午までに移動すると返電を重ねた。

26日午前零時過ぎ、バルチック艦隊随伴の石炭運搬船6隻が上海に25日夕方に入港したという情報が大本営に飛び込んで来た。運搬船を離脱させたのは、航続距離の長い太平洋ルートを通らないことの証明でもあった。この情報によって連合艦隊は落ち着きを取り戻し、対馬海峡でバルチック艦隊の到着を待った。もし運搬船の上海入港が1日遅れていたら、東郷は艦隊を北海道に向けていたかもしれない[7]。

1905年5月27日午前2時45分[8]、九州西方海域203号地点にて連合艦隊特務艦隊、艦長成川揆大佐指揮の仮装巡洋艦「信濃丸」がバルチック艦隊の病院船「アリヨール」の灯火を夜の海上に発見した。接近して無灯火航行中の他の艦を多数確認し、4時45分、第一報にて「敵艦見ユ」を意味する「タタタタ(実際はタの連送)」で始まる「敵艦203地点ニ見ユ0445」を打電した。

信濃丸は6時すぎまでバルチック艦隊に同航し敵艦隊が間違いなく対馬海峡を目指している事を確認してから、警戒任務のために近くにいて偵察に駆けつけた巡洋艦「和泉」と交代後、敵に発見されることなく離脱した。「和泉」は6時に引き継いでから7時間に渡り敵の位置や方向を無線で通報し続けた[6]。

戦闘
本日天気晴朗ナレドモ浪高シ
「信濃丸」が夜間に病院船「アリヨール」を発見できたのは、ロシア艦隊で1艦だけ「アリヨール」が灯火管制を守っていなかったためであった。バルチック艦隊は、「信濃丸」が電信で通報していた間も、砲撃を加えないばかりか電波妨害を行なわなかった。強力な無線機を積んでいた「ウラル」艦長の妨害電波発信許可に対してロジェストヴェンスキーは「日本側の無線を妨害するな」と命令した。日本艦隊はこのために継続的な通報を受けることができた。また、「信濃丸」は夜間とはいえロシア艦隊に並航して観測を行い電波を発射し続けていたが、ロシア艦隊からは発見されなかった[9](当時は無線方位測定器の実用化以前)。

5時05分、連合艦隊全艦艇に出撃が下令された。連合艦隊は大本営に向け「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と打電した。これは、海が荒れて計画していた連繋水雷作戦[10]が行えないので、砲戦主体による戦闘を行うの意とも言われる。